成年になる木野の烏帽子着 [京の歳時記10月]
NO731神歌の舞 狂言翁舞↑
10月23日午後8時より、左京区北部木野の農作地帯に伝わる伝統行事である烏帽子着がある。木野は岩座の火祭の地域から西へ歩いても20分くらいの場所にある。近くに精華大学があり、学生も多く見物にやって来る。
烏帽子着を地元では「袴上げ」と呼んでいる。少年が大人になるための儀式であり、木野では16歳の少年が該当する。毎年数人と少子化の影響が表れて数人が成年となる。
まずは暗闇の中提灯だけで照らされた参道を白装束の神職や神饌物を捧げ持つ村人が参進してくるのが印象的である。
未公開 神職参進↑
境内は正面の舞殿の奥に3つの社を祀る。東を奥社、中央の本社を愛宕社、西を野々宮社といい、それぞれの名前を記した提灯が吊られている。儀式のある場所に全面ムシロが敷かれていて、現在のイスなるものを拒否しているのが特徴だ。
NO730お社に飾られた神饌↑ とNO732神饌物↓
左から壱の膳、弐の膳、ゆり輪膳、花膳(クリックで拡大します)
神饌を3つの社に仮置き場から運ぶのに穢れ除けに白い紙で口を覆う。その神饌は3膳あって、1膳にマツタケ、大根、青菜、しょうが、ずいき。2膳にのち、ごぼうなど。3膳は餅で大小ありゆり輪膳という。菊の花などの花膳を4膳とし、赤い御幣が1膳に立てられている。これが土器に入れた灯明に照らされて異彩を放つ。
儀式は下鴨神社のみやつかさ神職を迎えて行われた。ついで茂山家の狂言が奉納される。神官や茂山家のいでたちは白い浄衣。狂言は翁舞者一人、地謡一人のシンプルなものである。白一色が聖域を醸し出す。
未公開 神歌の舞↑
儀式が終わると、成年たちが東西の座にいる先輩に杯である「カワラケ」を運んだ後、「昆布」「御酒」「スルメ」「御酒」の順に座っている先輩にもっていき差し出す。酒と肴との間に裃の正装した先輩は東西ごとに謡の高砂でお祝いする。灯明と提灯明りだけのほの暗い社に響く声は成年の心にどのように響いているのだろうか。最後の酒(3献目)が終わると全員が高砂の千穐楽を唱和して式は終わる
NO734 盃 カワラケの配り↑
未公開 肴 昆布の配り↑
未公開 高砂↑
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動く博物館、時代祭(4)祭りの中の道具など [京の歳時記10月]
時代祭りは京都が受け継いできた伝統の技が凝縮している。弓、矢、兜、甲冑、馬飾り、水引などなど。それらと紹介できなかった衣装などをランダムに載せていくと
動く博物館、時代祭(3)延暦時代・神饌構社~弓箭 [京の歳時記10月]
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上賀茂で笠懸、馬上から的を射る(2010/10/17)
時代祭の行列の最後は神幸列を中心にしたものとなる。武官、文官の行列に次いで他の神社祭礼に見れるような神幸列を中にして前に「前列」その前に「神饌構社列」後ろに白川女を挟んで弓箭組と続く。
延暦時代
未公開 延暦武官行進列
延暦文官参朝列
NO817神饌講社列 祭の神饌物奉納する列 ここからは神幸列となる。
NO819前列 楽人
NO818前列 胡蝶
NO820神幸列 桓武天皇ご鳳れん
NO821献花 白川女列
NO822弓箭組列(最後列)平安遷都の際天皇の護衛にあたった
なお、神幸列は当日早朝に平安神宮を出る。NO823応天門を降りる鳳れん
NO823応天門を出る神幸列
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動く博物館、時代祭(2)室町~延暦(平安京遷都)時代(2) 婦人列 [京の歳時記10月]
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上賀茂神社で笠懸、馬上から的を射る(2010/10/17)
大原のコスモス満開(2010/10/16)
宝鏡寺で人形供養祭(2010/10/14)
時代祭の華は婦人列ともいえる。江戸、中世、平安の3つの時代を歩く。今回は前回の明治~安土桃山の前、中世~延暦時代の歴史的女性群とは!
中世婦人列
大原女↓
洛北大原の室町末期の姿
桂女↓
髪を包む風習の売り女
淀君↓
秀吉側室。華麗な内掛けの外出着
藤原為家の室(阿仏尼)↓
十六夜日記の作者。市女笠姿
源義経に愛された白拍子
平安婦人列
巴御前↓
行列中唯一の女性馬上姿
横笛↓
滝口時頼と恋に落ちる
常盤御前↓
源義朝の夫人。牛若、乙若を連れて京への旅姿
紫式部と清少納言
式部(前)は略装、少納言(後ろ)は正装女御装束
紀貫之の女(娘)↓
延喜時代の歌人の娘。手に梅の枝
小野小町↓
平安初期の特殊な姿
和気広虫↓
法均尼ともいう。孤児院の起源創設
百済王明信↓
右大臣藤原継縄の妻。百済氏族
特別行列・白川女↓
婦人列以外の衣装風俗
鎌倉流鏑馬列の童↓
和気広虫列の孤児たち(右下)
京都写真紀行では一部掲載 京都写真紀行>10月>時代祭
大原女、桂女、白川女は現地の女性陣が奉仕している。中世夫人列は花街が輪番で行進している。また、平安夫人列は花街と地域女性連合会が奉仕。写真はほぼ未公開の分を集めました。
動く博物館、時代祭(2)室町~延暦(平安京遷都)時代1 [京の歳時記10月]
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上賀茂神社で笠懸、馬上から的を射る(2010/10/17)
大原のコスモス満開(2010/10/16)
宝鏡寺で人形供養祭(2010/10/14)
平安遷都1100年の1895年(明治28年)に平安神宮の創建記念祭として始まった。平安神宮は、桓武天皇が祀られた(後に京都最後の天皇孝明天皇も合祀)ため、室町幕府を開いた足利尊氏は逆賊として扱われ、これまで室町は時代列に加わっていなかった。
しかし、京都の文化の基礎になっている茶・花・能・狂言・庭・建築はその時代にこそ花開き、町衆のエネルギーも祇園祭に結集された。そのため長くこの時代を列にとの議論も盛んであった。なにせ動く文化博物館といわれるだけあって数万点の衣装などはすべて本物である。近代になって祭は京都の職人の技と伝統を支え、継承させてきた側面も大きい。
2007年からの幕府執政列と洛中風俗列の2列は織田公上洛列(安土桃山)と楠公上洛列(吉野時代)の間に入って、新品の衣装や道具類をつけての登場となり、行列はぴかぴかに輝いたといえる。
執政列は権力側の足利将軍や管領細川氏などがそれこそ、金ぴかの衣裳をつけて馬上の人となった。一方洛中風俗列は総勢45人のメンバーで構成。祭に笛・太鼓・鉦にササラ(竹)などの音に棒ふり踊りなど行列の中でも異色のものとなった。風流踊りと名がついている。ちなみに滋賀県草津市に伝わる「草津サンヤレ踊り」に教えを乞い、京都が源流のものを復元した。
この風流踊りの参加で、静に歩くのを見るという多少退屈な行列が楽しくなったようである。音楽以外で江戸城使上洛列に槍もちのパフォーマンスが大受けしているので、それと同じように人気が出るのではなかろうか。(一部JANJANニュースに掲載)
NO789洛中風俗列↓
NO799室町風流の女房連↑
NO797室町執政列↓
NO800吉野時代・楠公上洛列↓
NO805鎌倉時代・城南流鏑馬列↓
NO807藤原時代・藤原公卿参朝列↓
NO810平安時代・婦人列
動く博物館、時代祭(1)明治~安土桃山(3) [京の歳時記10月]
江戸時代の前は秀吉、信長の時代である。戦国時代がようやく終わるころで、行列も戦姿一色となる。とくに信長の鉄砲戦術があり、列にも加わる。
そんな中にあって平安期からの公家時代を見せるのは豊公参朝列の牛車(ぎっしゃ)であろう。1596年の秀頼参内の様子を模している。この時代の中にあっては雅さがある。秀吉が関白を名乗ったことからも理解できようか。秀頼元服の盛儀だ。
動く博物館、時代祭(1)明治~安土桃山(2) [京の歳時記10月]
時代祭りには列の中に名前を書いた小さな幟を本人の前の案内に持たせた人物などが歩く。日本の歴史の中では誰でも知っている名前だと思われがちだ。しかし祭の選択人物はそうとも限らない。たとえば2010年ブームになっている坂本竜馬はその前者。では江戸時代婦人列の「梶」「中村内蔵助の妻」などはどうであろうか。そこでまずは桃山までの案内人付きの方々に登場願おう。
維新志士列
動く博物館、時代祭(1)明治~安土桃山 [京の歳時記10月]
平安京遷都が行われたのは、桓武天皇の西暦794年10月22日である。時代祭は平安神宮が明治28年(1895)に遷都1000年を記念して創建されたのを祝う行事。神宮は桓武天皇を祀るのに加えて、京都での最後の天皇となった孝明天皇が合祀されている。そのため、時代を逆に、明治維新から延暦時代までの時代風俗行列が行われる。
時代祭はあくまでも平安神宮の「私祭」ということである。京都三大祭(祇園祭、葵祭)に数えられるが、いずれも宗教とのかかわりが深い。
祭は22日午前7時から平安神宮で始まり、8時に神幸祭、次いで神幸列が9時に御所に向かう。御所建礼門前で神饌や献花の神事を終えて、正午門出発。市役所前などを通り平安神宮に到着。還幸祭などの行事・神事は午後5時前後に終わる。
祭の風俗衣裳はすべて京都の伝統の技を生かして作られ、「動く博物館」と形容されている。(janjan筆者投稿記事)
NO786維新勤王隊列
NO788維新志士列 七郷落ち
NO789徳川城使列
NO790江戸時代夫人列 和宮
NO791江戸時代夫人列 吉野太夫
N0792江戸時代夫人列 出雲阿国
N0793安土桃山時代 豊公参朝列
NO795安土桃山時代 織田公上洛列
京都写真紀行では 京の歳時記>10月>時代祭
次回に続く
時代祭は御所の有料席の西南一体が比較的正面から撮影できる。ただし1等席なのでマスコミやプロのカメラが集中する。12時行列が動き出すので9時には現地入りが必要。堺町御門前の丸太町南の歩道は全行列が出てくる場所なのでここも場所確保が難しい。毎年御所内の行列のルートが定まらない事にも注意を。沿道はどこででも撮影ができる。次回にも写真を紹介するが、平安神宮の神幸祭という観点でみると8時の神宮応天門前での撮影も面白い。
真夜中3時に点火する岩座の火祭 [京の歳時記10月]
なんともハードな祭りが鞍馬の火祭の3日後(年によって変わる)にあります。同じ叡山電車沿線で鞍馬の7つ手前にある岩倉地区・岩座神社の祭りです。源氏物語の光源氏と紫の上が出会ったといわれている大雲寺の隣にあります。
真夜中3時に巨大松明2本に火がつくのです。長さ10、胴周り4メートル50はあろうかというものです。青竹をそのまま寄せていてパンパンとすさまじい音が火の後ろからついてくるのです。その昔大蛇が人や家畜に被害をもたらすのをやめさせるために神前の灯火で松明を燃やしたところ逃げ出したという伝説が残っています。松明を二本東西に寝かせ、雄雌の大蛇に見立てています。火勢を保つため若衆が松明の上に乗り空気を送る隙間を作る荒業を見せる場面もあります。
なるほど音といい、火の勢いといい大蛇も退散すること間違いなしです。 燃え尽きた松明の消し方が伝統的です。竹笹ほうきで火の上をならし、幅1mくらいのむしろを引きずる。両側を紐で引っ張り、ムシロの上に4本のひっかけ棒を押し付けている。合計6人の男と音頭とりが数回繰り返します。
地元の子供たちも真夜中にかかわらず集ってきています。松明行事に一若衆として参加している先生を見つけて応援する子供たち。眠そうな子はいません。それもそのはず燃え尽きるのを見計らって四時半になると神輿を担いで村に出て行きます。現代の時間割りを無視していますが地域と学校との交流も大切なことを肌で感じることでしょう。 (環境文化研究所発行「クリンネス」に記述した文章です)
NO726燃え上がった大松明
NO727点火前の直会
未公開写真 大蛇見立ての松明
NO725消化は昔ながらの手法
NO729夜明け前の出御
京都写真紀行では 京の歳時記>10月>一般歳時記鞍馬の火祭2 [京の歳時記10月]
NO850燃える大松明を担ぐ
NO831松明を担げとはやす青年たち
NO840若武者の合図鞍馬寺石段に先導松明が集まる
NO851燃え、集まる大松明
すべての松明が燃え尽きると担ぎ手たちが神輿の前に集まるが、この祭の奇祭たるゆえんの1つは女性たちの参加だろう。神輿こそ担がないものの2本の大綱を持ち上げて階段を降りる神輿の支え役となる。そしてその階段まで神輿に乗った若武者をこともあろうに「振り落とせ、振り落とせ」とさけびながら神輿を左右に揺するのである。そして階段にさしかかると今度は担ぎ手2人が神輿に足を大股に開いて逆さになって降りていく。「ちょっぺん」といわれるこの所作もまた奇祭中の奇祭たるゆえん。
NO843神輿石段降り
NO826チョッペン
町には自動車の通れる国道が1本のみ通っている。道の両側に家並みがあり、他には人が通れる道しかない。したがって当日はこの国道沿いの町始めから終点までが会場ということになる。中心部に鞍馬寺への石段がある。御旅所は石段から坂下のほうにある。神輿が石段を降りて、まずは坂上の方に練る。手松明を持って道を明るくしながらの行列。下ってきた神輿は御旅所前を通り、町始まりの坂下まで行き、もどってくる。
神輿が通り過ぎた御旅所前には燃え尽きた大松明とは格好の違う松明が並べられ、もどってくる神輿を照らす。神楽松明と呼ばれ4本ある。町が4つに分かれていた名残りという。やがて太鼓の音と共に鳥居前で曳き綱をはずされ、鳥居の中に入って行く。最後に神楽松明も燃やされる。翌日早朝に還幸する。
NO842石段から山手に向かう神輿
NO833御旅所前の神輿
NO825神楽松明が神輿を迎える
京都写真紀行では 京の歳時記>10月>鞍馬の火祭
鞍馬の火祭りは21時ごろがピーク。この時間帯はほとんど見物は不可能だ。すべてを撮影するには少なくとも3年は必要だろう。鞍馬寺石段を境に山手、下手(御旅所側)そして石段付近。中心の石段付近は当日朝から並んでも警察官に排除される可能性もある。村に入り松明以外の風景を撮るのが賢明だろう。